スケアード・ストレートの「教育」効果

Byron Kidd
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「スケアード・ストレート」は1970年代アメリカで青少年犯罪を抑止する手段として生まれた考え方で、非行に走る恐れの有る青少年に刑務所を訪問させ、所内見学ツアーに参加させたり、苛酷な刑務所生活を受刑者の姿から直接学ばせたり、カウンセリングを受けさせたりするプログラムだ。多くの場合、青少年たちは受刑者と直接向き合う状況に置かれる。これは、彼らを文字通り脅して犯罪の人生から遠ざけるのが狙いだ。だが数十年間の研究の結果、そうしたプログラムは効果が無いばかりか、青少年に害を与えかねず、実際に参加者の再犯率が上昇した事が明らかになっている。 1997年に米連邦議会に提出された一本のレポートでは500以上の犯罪予防手法が評価されているが、その中でスケアード・ストレート方式の各種プログラムは「有効ではない」に分類されていた。こうした証拠にも関わらず、類似のプログラムは今日でも世界中で実施されている。


そう、ここ日本にもスケアード・ストレートの考え方は根を下ろしているのだが、その使われ方は随分と違う。日本では子供たちを怖がらせて安全な自転車の乗り方を身に付けさせる狙いから、地域の中学校で開催される交通安全イベントで、自転車と歩行者、トラック、乗用車の再現事故を見せているのだ。週末、私は運良く招待を受けて、それを初めて見る事ができた。

私はこれまでずっとスケアード・ストレート方式の自転車交通安全プログラムには否定的な見方をしてきた。自分自身が子供の頃、自転車事故を再現するスタントマンたちを学校で見て、同じ日の午後には公園で友達と全く同じ事をしていたからだ。12歳の少年にとってスタントマンは憧れの存在だが、自転車の安全はかったるいだけなのだ。しかし今回のイベントには、あらゆる先入観を捨て、虚心坦懐に学ぶ姿勢で参加しようと決めていた。


校庭に入るとすぐにチラシを渡された。冒頭には、自転車が歩行者を負傷・死亡させた重大事故が列挙されている。その中には、中学生の少年の母親が、少年が負傷させた被害者の家族に対して1億円近い損害賠償をするよう命じられた2013年の判決も含まれていた。この一際目立つ訴訟は今や格好のブギーマンと化しており、恐怖を煽って大衆を自転車保険に加入させる道具として、警視庁や学校、弁護士、保険販売員たちに使われている。自転車の安全に関するチラシやポスターの類いで、この人目を引く悲惨な事件に言及しないものは無い。おかしな事だが、受け取ったチラシには、自動車が自転車利用者や歩行者を死亡させた事故が一件も書かれておらず、自転車と自動車それぞれが引き起こした死亡事故の一覧表も載っていなかった。もしそんな表が有れば、自転車が自動車より遥かに安全だという事が一目瞭然だっただろう。いや、この講習会のテーマは自転車の安全運転だった。車が出てくる幕は無い。そうだよね?


何度か深呼吸をしてから自分に言い聞かせた。今日は学びに来ているんだ。批判する為じゃない。少なくとも、イベントが終わるまでは。


式は警視庁の代表者のスピーチで始まった。話の内容は概ね配布されたチラシをなぞるもので、傍若無人な自転車利用者が歩行者を死亡させているという恐ろしい話の他には、幾つかの交通事故統計や、警察が自転車の最重要ルールと位置付けている5つの規則の簡単な紹介が有った:

 1. 自転車は車道[が原則、歩道は例外]
 2. 車道では左側を通行
 3. 歩道では歩行者優先[で、自転車は車道寄りを徐行](これは1番目のルールと矛盾する)
 4. 安全ルールを守る(つまりこのリストにはルールが5つ以上有るという事だ)
 5. [子供は]ヘルメットを着用


警察官が今回の参加者である12〜15歳の生徒たちに向けて、君たちは自転車に乗るとき車道を走らなければならないと強調した時、私は観衆の後ろから「それができるほど東京の道路が安全だと本気で思っているのか」と反論したくなったが、顔を顰めるだけにして口には出さなかった。交通事故での死者数が劇的に減少してきているという話をしている間、警察官は自慢げに仰け反って後ろに倒れんばかりだったが、私は「数字を小さく見せ掛ける粉飾が剥がれたらどうなるだろうか」と疑問を差し挟みたかった。事故後24時間以上経過してから死亡した犠牲者は交通事故の死者数としては記録されないからだ[訳注1]。だが、私は批判目的で参加したのではなかった。


話が終わりに近付くと聴衆はそわそわし始めた。彼らはアクションを見に来たのだ。剣闘士を出せ、ショーを始めろ。


40km/hで走ってきた乗用車が進路上に停めてある自転車に衝突すると、ギョッとするほど大きな音が響き、自転車のチャイルドシートに載せてあったダミー人形が宙に舞った。子供たちはこれを見てクスクス笑い、集まった親たちはハッと息を呑んだ。多くの保護者がショックを受けて目を逸らし、一人の母親に至っては、もうこの時点で沢山だと判断して帰ってしまった。この実演にはかなり重要なものが有るのかもしれない——私は思った。一般的に遅いと見做されがちな速度で走る車がどれほどの衝撃を与えるのか、観衆の中の大人のドライバーたちも全くイメージを持っていなかったからだ。ハンドルを握っている時の自分の行動がどんな結果に繋がり得るのかを見る事は、彼らにとって良い薬になる。


司会者はこの冒頭で笑い声が起こった事を機と捉え、子供たちを厳しく叱った。「自転車の安全はとても大切な事です。もし君たち自身や家族が似たような状況に置かれたらと考えてみましょう。これでもう笑い事じゃないと分かりましたね?」 だが、参加している子供たちの大半にとっては、これはサーカスの同類で、100%完全にエンターテインメントなのだ。


続いて、傘を持って自転車に乗った二人が衝突した。「見応えは有るが、殆ど為にならない」。私の中の皮肉な部分が注釈を付けた。だが次は違った。スタントマンたちは両手でのブレーキと片手でのブレーキの利き方の違いを実演し、雨の日はその違いが更に大きくなると強調した。停止距離を実際に見るのは、紙の上の単なる線や数字よりずっと理解しやすい。これは認めざるを得ない。もしかしたらこの講習会にも幾らかの価値は有るのかもしれない。


今度は、自転車に乗った4人がそれぞれ危険とされる行為を実演した。一人はヘッドフォンをし、一人は車道を逆走、残りの二人はちょっと思い出せない。車道を逆走してきた自転車と他の自転車がぶつかると、後方から来た車に4人全員が撥ねられた。生徒たちは、自転車が犯した4つの間違いが何だったかを問われた。私は5つ目の答えを挙げたくなった。「車のドライバーが周囲の状況に充分な注意を払っていなかった。自転車や歩行者の近くではもっと慎重に運転すべきだ」。だがこれは自転車の交通安全イベントだ。そう自分に言い聞かせて口を噤んだ。


自分を抑えつつ残りのショーを見ていたが、或る時点で私は苛立ちを堪え切れなくなりそうになった。その事故の実演は、自転車が歩道上を真っ直ぐ走って行き、青信号で横断歩道に差し掛かった所で左折してきた自動車に撥ねられるというものだった。「この事故で自転車は何が間違っていたでしょうか?」生徒たちは質問されて、「自転車が歩道を通っていた」、一人が答えた。だが自転車の歩道通行は警察の安全五則で容認されている。「自転車は横断歩道の手前で減速しておくべきだった」、別の一人が答える。「自転車はもっと注意すべきだった」と3人目。「横断する時は自転車を降りて押し歩きしないといけない」と誤った答えを言う生徒もいた。


私は気付いた。講習会のこの時点で既に洗脳が完了している。再現事故では2者が関わっていたのに、今や生徒たちには自転車側の問題行動しか見えなくなっているのだ。誰も「部屋の中の象」、この場合は横断歩道上の1800kgの車を見ていない。ドライバー側の勝利が確定した。


追い打ちを掛けるように司会者は生徒たち(誰一人免許が取れる年齢には達していないが)に死角の説明を始めた。自転車が交差点に進入した地点はドライバーから物理的に見えなかった、だから事故は避けられなかったのだと。避けられない? 何を言ってるんだ? これには堪忍袋の緒が切れそうになった。


ドライバーが交差点に進入する前に特に用心していれば事故は防げたのでは、といった話が一度も出て来ないまま、ドライバーは一切の責任から解放されてしまった。何故なら「自転車が何もかも悪い」からだ。警察が許容している歩道上の通行や、青信号での交差点の横断でさえ「間違い」なのである。厳格責任(strict liability)、つまり、大きく重い乗り物の操縦者が、軽く脆弱な道路利用者の安全について責任を負うという概念は一切触れられなかった。ドライバーは死角を生む車体構造の被害者であり、自転車利用者が不注意だった所為で撥ねてしまった、という訳だ。


私は叫び出したくなった。


というわけで、講習会の最後まで、スケアード・ストレート方式の自転車安全キャンペーンについての私の考えは変わらなかった。閉会後、生徒たちと話して分かったのは、彼らにとってスタントは強く印象に残ったものの、自転車の安全について何か一つでも学んだ生徒は殆どいなかったという事だ[訳注2]。予想通り、あれはサーカスだったのだ。しかし、固定観念を持って見に行った私でも、それぞれの再現事故でドライバーの行動があそこまで徹底して不問に付されるとは思っていなかった。若い精神が型に押し込まれて変化するスピードは驚くほど速い。子供たちはすぐに、自動車には何の非も無いと考えるようになり、それぞれの再現事故で仮に車が要因になっていたとしても、それは完全に無視するものだという約束事を覚えた。今回出席してみて、私は確かに得るものが有った。残念ながら悪い意味でだったが。


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訳注1
警察庁は24時間以内死者数だけでなく30日以内死者数の統計も発表している(https://www.npa.go.jp/toukei/koutuu48/toukei.htm)。厚生労働省からは事故後1年以内の死亡を対象とする人口動態統計が発表されており(http://www8.cao.go.jp/koutu/taisaku/h26kou_haku/zenbun/genkyo/h1/h1b1s1_1.html)、その死者数は6277人と、24時間以内死者数より約1800人多い(2012年の場合)。また、負傷者も合わせれば、交通事故の犠牲者数は依然として高水準に在る。

訳注2
スケアード・ストレート方式の交通安全教育に関する学術研究は2015年5月31日現在、国内の論文データベースを横断検索できるCiNii Articlesで調べる限り、僅か1件だ。この研究(http://ci.nii.ac.jp/naid/40019955956)は実験に参加した生徒の安全運転の知識や意志をアンケートで評価したもので、紙の上では一定の効果を実証しているものの、実際の運転行動に改善が有ったかどうかや事故率が低下したかどうかについては明らかにしていない。


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訳者あとがき

子供が自分の身を守れるようにする為の教育を「洗脳」と表現する事に不快感を覚えた人がいるかもしれない。だが、その教育には、車を中心に考える意識や、自転車を貶める意識を助長するといった副作用は無いだろうか。

意識という目に見えない要素が社会に与える影響は計り知れない。自転車に対するドライバーの振る舞いから、交通事故裁判での過失割合の認定、そして交通政策での資源配分に至るまで、意識は社会のあらゆる面に浸透している。それだけに、人の意識を変え得る施策には慎重な態度が必要だ。

単に事故を防ぐという観点であれば、スケアード・ストレートは効果的な手法かもしれない。だが、交通弱者に優しい社会の実現や、持続可能な社会の模索といったより広い文脈に位置付けた場合でも、それは最適な手法と言えるだろうか。

Byron Kidd氏はこの記事で、安全の為という善意に隠れて見えにくい、意識の書き換えという陰の側面を指摘する事で、「生徒たちにウケが良い」といった安直な理由でスタント実演に頼る日本社会に疑問を投げ掛けているのである。

This article has been kindly translated from the original English version by ろぜつ

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